城下町の名残漂う白壁            秋月城趾 長屋門   


     秋月ストーリー

      月は英彦山修験の道場として開け、鎌倉時代より原田
     種雄が秋月三郎種雄を名乗り天正期には筑前・筑後・豊

     の36万石を納めていたといわれる。
     1587年豊臣秀吉の九州侵攻で敗れ、日向財部(宮崎県
     高鍋町)に移封されるまで秋月氏時代は約400年続いた。
     1600年黒田長政が筑前の国に封ぜられると、叔父の黒田
     図書之助直之に秋月を統治させた。
     1623年長政の遺命により筑前の内5万石を分領し、三男
     長興が秋月城に入る。その時から、家中屋敷の縄張りがな
     され秋月の城下町は形成されていった。当初秋月藩は福岡
     黒田藩の支藩であったが、1634年に江戸幕府から朱印状
     が交付され独立藩となった。


            
              
秋月城趾 黒門                垂裕神社

     その後、秋月は1638年の島原出陣から大政奉還まで、秋月
     藩十二代の城下町として栄え、明治維新後の明治4年の廃藩
     置県で一時は秋月県となるが、数ヶ月後、福岡県と合併され
     政治的地位を失う。明治9年秋月の乱で敗北する。
     筑前の小京都秋月は、約800年のさまざまな歴史と悲話を秘
     めている町である。

 
  

     『史跡をたずねて』
     黒門や眼鏡橋の他にもいろいろな史跡がたくさん残っています。
     ちょっと違った史跡を散歩しませんか。

    

     ●古心寺
      秋月藩の初代藩主、黒田長興は若年にして父(長政)を失ったので、
      追慕の念は特に深いものがあった。
      長興は父の菩提を弔う寺を建立するため、京都の最も尊敬する大徳寺
      竜光院の江月和尚に「興雲山古心寺」という寺の名をつけてもらった。
      だが、なかなか建立が進まず寛永20年(1643)江月和尚は、新寺を
      見ないまま他界した。
      それから4年後の正保4年(1647)、亡父長政の菩提寺として落慶した
      のである。

     ●秋月黒田家の墓所
       白壁の塀にめぐらされた墓所は、黒田長政をはじめ藩祖黒田長興以下
      歴代の藩主、並びに夫人が埋葬されている。ずっしりと重い感じの墓石が
      23基、そして51基の石灯籠が並んでいる。

     ●鳴門観音
       寛永年中当主黒田長興入国の後、暢堯の忠誠を感じ一宇の堂を建立し
       霊を安置され鳴門山音声寺と称された。と伝えられている。
       その後いつの日か廃寺となり、今に残る観音堂は、国中第29番目の札所
       として巡礼されている。

     ●腹切岩
       天正15年(1587)豊臣秀吉が九州征伐に際して起きた、秋月種実の
       家臣、恵利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)の悲しい物語である。
       恵利内蔵助暢堯は、種実に秀吉と和議を結ぶことが秋月家繁栄の得策
       だと何度も進言したが、聞き入れられないため、死をもって進言するしか
       ないと、天正15年3月14日この大岩に上がりお城に一礼した後、まず、
       妻子を刺し自らの命を断った。郎党も数人殉死したと言われている。

     ●秋月種時之墓
       石碑の周りには石の玉垣があり当時の建碑様式からみて、身分の高い
       人の墓だと窺われ、そばには殉死した家臣の墓と思われるものも建って
       いる。
       秋月14代種時の墓所である。しかしそのほか歴代の墓所は残されていない。
       なぜ14代種時の墓だけ残っていたのかなぞにつつまれている。

       
            
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